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『暴力』&『犯罪』&『戦争』(2)


Edit Category 暴力
個人的な過去体験・過去思考


第一段階である『暴力』を考えるにあたり、私の思春期・青年期の思考や体験を記事にちょっとまとめてみたいと思います。 (興味がない方には不快だと思われる内容なのでスルーして下さい)




(保育所)
保育所は両親の転勤により、2か所通いました。
私は元々は気が弱い子供でした。内気でしたし、仲の良い友達とだけ遊ぶ静かな子供でした。境遇的な問題だと思いますが、世間的に悪いこと(○○)は5歳ころから済ませていました。父親が他都道府県外に単身赴任で、母親も正社員で夜遅くまで仕事をしていて、小学生の姉がいましたが、帰宅しても両親不在の鍵っ子家庭でしたから(記憶が曖昧ですが、母親が迎えに間に合う時もあれば、間に合わない時は何処かの知らない大人や何かの預かり所に預けられ空白時間がありました)、そういうことは幼児期に似たような境遇の何処かで知り合った子供に誘われて教えてもらいました。父方祖父母も母方祖父母も離れた他都道府県に住んでいたので親代わりができる大人はいませんでした。今は共働き世帯が多いので、似たような子供が増えているかもしれません。私と似たような境遇だった人も意外にいるかと思います。あと、昔のおじいさんって法律とか適当な人が多かったと思うのですが、遠く離れた他都道府県に住んでいた母方の祖父には、お遊びみたいな感じで、お盆とかで遊びに行ったときにタバコを吸わせてもらったり、日本酒を飲ませてもらったりしていました。悪いことと言うより、その年代の祖父の愛情表現だったと思います。たぶん、私の年代だとそういう祖父を持つ人は結構いると思います。その時のタバコが強烈に不味くて20歳になるまで喫煙することはありませんでした。日本酒は味見して、ちょっと飲んでフラフラしてるのを祖父が喜んで笑顔で見ていて、そのまま寝てしまうといった感じでした。飲酒は小学校高学年ころから、ビールや日本酒をたまに飲んでいました。両親は、両方共の祖父が酒のみだったので、飲酒について、おそらくですがとりたてて悪いことだと意識しておらず、何も咎められたことはありません。



(小学生)
私は、両親の転勤により3つの小学校に通学しましたが、楽しかった小学校もあれば溶け込めなかった小学校もあります。からかわれることもありましたし、モノを隠されたこともありました。

最後の転校先の小学校のクラスの席替えで必殺「好きな人同士」で班決めというのがあって、グループに入れず、1人で後ろの壁に立ち最期に選んでもらうという屈辱的な出来事がありました。
好きな人同士」の班決めって人数に「男の子3人・女の子3人」とかっていう人数制限のルールがありますが、これって気持ち悪いと思います。4人で仲良しだったら、1人は弾かれる訳です。この時の、皆が急にいそいで友人と組み合う動きって気持ち悪いです。
これは生徒が悪いんじゃなくて、完全に教師が馬鹿なんだと思います。好きな人同士は放課後や休憩時間に勝手に遊ぶのですから、班決めなんて強制でいいと思います。中学校とかの修学旅行も強制でいいと個人的には思います。
自分が仲良いかなぁって思っていた男子が、他の人とくっついてしまって自分が余ってしまう感覚って嫌でした。「好きな人同士」に対して、私と同じような感情を持った子供は他にも多くいたのではないかと今では思っています。

鍵っ子で家に帰宅しても親がいつも家にいないという孤独感もありました。父親は他都道府県単身赴任でしたので、母子家庭に非常に近い。実際のところ、母子家庭で祖父母の援助を借りれない家庭は過酷だと想像できます。母親も正社員で夜遅くまで帰ってこない。寂しさを強く感じた時期もあります。触れ合う時間がそもそも少ない。授業参観に親が来たことは一度もありません。そんなものは慣れてしまってどうでもよいことでしたが。私自身が、今子供と一緒に生活したい理由や妻にまだ働いて欲しくないと思う理由はこのころの思い出と強く結びついています。でも、金銭的にしかたないので妻はもう少しで働く予定ですが。この後、私は次第に心の中で孤立していきました。同級生と教室内で暴力沙汰の喧嘩になったことがあったのですが、周囲の全員が喧嘩相手を応援し、転校生の私を誰も応援しなかったことも屈辱的でした。喧嘩には勝ちました、この頃急激に身長が伸びていて体が大きくなっていたので。 孤独感はありましたが、友達が皆無だった訳ではありません。公園で皆と野球をしたりしてよく遊んでもいましたし、ファミコンもしていましたし、同級生の家に遊びに行き、その同級生の中学生のお兄さんや他の複数の先輩がタバコを吸っている部屋で一緒にマンガ本を読んだりして遊んだりもしていました。


(中学生)
私は中学校1年生の途中、まだ12歳のとき要因が重なって「もう俺、ずっと1人でいいわ」と本気で思い至ったときがありました。その日を基準に、私は中学1年生で剃り込みを入れ、眉毛を細くし、からかう相手を思いっきり蹴るという行動を始めました。孤立感から死んだ魚のような目になり、馬鹿げたイタイ中学生ならではの雰囲気の冷酷な冷めたガンを飛ばして日常を過ごしていました。当時の身長は約170センチ。この身体的優位性は非常に私に優位に働いてくれました。それまで、結構酷いあだ名(記事に書きたくないような)で呼ばれることがあったのですが、精神的に不快なものを我慢し続けることがもう嫌でした。こちらから何も言ってないのに不快な言葉を言ってくる、そんな奴は許せない、彼らをエスカレートさせる必要はないし、許す必要もない。私は『思いきり蹴って馬鹿を黙らせる』という行動を選択して、からかわれることは皆無になりました。当然ですが近寄ってくる同級生もほぼ皆無になって、孤立感をますます引きづり成育しました。孤立しても「運動」と「勉強」は存在感を失わないために必死になって一生懸命やっていました。所属していた球技部では、3年生が抜けるとすぐレギュラーになりその後はエースとなって主将になりました。成績も最上位グループに位置していました。私は、剃り込み眉剃りという「容姿・身なり」をしていましたからそれなりのイベントは発生しました。私は、当時護身用に折りたたみナイフをいつも財布に入れて持ち歩いていました。それは自分が本当は弱いことを知っていたからです。格闘技経験もありませんでしたから、自分に自信もない。しかし、私は当時すでに感性的に相当冷めた人間になっていました。これ以前に、母親から包丁を直近で真っ直ぐ向けられて真顔で「あんまりふざけると、本気でお前を殺すよ」と迫られたことが2回あります。そして包丁の峰で頭部を思い切り叩きつけられました。これは酷い話ではなく、母親が正しく、腕力が強く育った私が制御不能になりつつあり、姉との喧嘩で力任せに怒鳴って暴力を振るう兆候が出始めていたので、父親不在の家庭の中で私を抑えるためにとった行動でした。母親の私の行動への指摘は筋が通っていたので、私は母親の言うことを聞きました。息子を本気で殺そうとする気概のある母親を私は意外と尊敬しています。逆に言えば、母親に尊敬できる部分がなければ、母親を暴力で圧倒して殺していた可能性もあります。父親についても私自身の精神的自立の障害になっているから「早く死ね」と思っていました。母親の「度が過ぎた道を外れる行為を本当にすれば、世間体を度外視して親としての責任をとって息子を自分の手で殺す」という気性は、私に引き継がれていると思います。私も許せない被害を受ければ、「相手を殺す」ことを躊躇しない気性の激しさが内在しています。具体的には、母親には「もし女の子をレイプしたりしたら、お前は私が殺すからね」とはっきり言われていました。私がレイプなどの犯罪に手を染めることがなかったのは母親の御蔭です。違う母親に育てられていたら結果は違っていた可能性が高いです。私は、当時ナイフを財布に入れていたと書きましたが当然「やられたら刺す・相手を殺しても構わない」という確信的な発想がありました。ここらへんの発想は、「常識もない・背負うものもない・結果のもたらす重大性を考えない」という「子供」の方が怖い。現実に刺したことがないから、なおさら極端です。1回刺してみて、初めて、自分がどのくらいの激情と冷静で人を刺すのか分かる。それまでは、よく自分の攻撃性の危険度が分からない。そして、現実に刺したり撃ち殺したりしても、反省するとは限らない。前記事で取り上げた映画「シティオブゴッド」に私が共感するのはこういった部分だと思います。

私は「ガンをつける」という恥ずかしい行為を他校の生徒や上級生に対してもやっていました。私は、1番強いと思われた上級生にトイレに連れ込まれたり、他校で試合中に不良から呼び出されたり、数人の上級生に突然話かけられたりしたことがありました。しかし中学時代は、不思議と殴られたことは一度もありませんでした。体が大きかったためかもしれません。中学3年時後半には、身長180cmを越えていました。ほとんど家に仕事で不在だった父親は、すでに暴力的に圧倒しており、まったく相手にしていませんでした。父親には精神的異質性もはっきりあり嫌っていました。当時は筋トレで2本指腕立て伏せを30回×3セット軽々とこなしていました。柔軟性も抜けており、逆立ちでずっと歩くことができました。スポーツにおいて表彰されることは何度かありました。




(高校生)
高校入学すると同時に行事(応援団練習)の訓練期間に付随して、空手をやっていた上級生に『訓練期間の約1ヵ月間顔を殴られ飛び蹴りされ自分の机を蹴飛ばされ続ける』という屈辱的なことが発生しました。私は高校生活のスタート時期にこんな屈辱を受けるとは考えていませんでした。年齢15歳で初めて殴る蹴るの身体的暴力を約1ヵ月間受け続けました。しかも、伝統なので学校公認。他の生徒も叩かれたり怒鳴られたりしていたのですが、私は反抗的で怒鳴ってきた上級生に対し■■をつけ続けたことが発端となり、空手をやっていた奴が私の担当になりました。そいつには激しくやられました。上級生応援団は集団でしたし、1人で逆らったところで勝つ自信もない、連携する仲間も高校入学初期でいない、正直その空手野郎一人にも勝てる自信はありませんでした。私は、高校進学時にはすでにナイフを持つことは恥ずかしい馬鹿げた行為だと考えていたので、ナイフは持ち歩いていませんでした。私は気性自体に荒い部分がありましたから、「辛い、学校辞めたい」という臆病で逃避したい気持ちと「この空手野郎、絶体自宅を調べ上げてやる、絶対復讐しに自宅まで行くからな、絶対許さねぇ」という怒りと悔しさの気持ちが脳内で複雑に煮えたぎっていました。

この応援練習という行事は20年以上も昔の話です。毎年殴る蹴るという状態だった訳ではなくて、馬鹿な空手野郎が勝手にそういう行事にしていたのだと今は思っています。(この行事は後年保護者間で大問題となってずいぶん昔に廃止されたそうです。)
暴力 を受けてもそれが学校公認(教師不干渉)で『誰も助けてくれない』
こんな時って、どうすれば良いのでしょう。

①親に言う
②先生に言う
③友達に言う
④警察に被害届をだす
⑤自分が強くなって復讐する
⑥相手を許す
⑦調子に乗った相手から被害に遭いつづける
⑧学校を辞める・または転校する
⑨自殺する
⑩蒸発する

どれも正解です。いや、⑦はマズイですね。⑥は泣き寝入りですね。⑨と⑩もよくはない。⑤は正解に見えて不正解な部分も多いですね。率直に、自分が強くなれるかどうかは運動神経と身体サイズに左右されます。強くなる前の自分より強くなることは簡単ですが、強い相手より強くなることは難しい。ただ、ハマれば自分自身が悪戯しにくい相手、少しイジメにくい相手に成長することはできると思います。①、②、③、④は周囲に苦しさを漏らすことで環境面の変化や相手への強力な制限を期待する行為です。とても良い行動だと思います。自分で改善できる力がなければ永遠に助けてもらえませんから。私の場合は、①親には屈辱的過ぎて言わない②先生公認行事③入学当初で友達いない④警察に言う類のことではない、という感じでした。⑧は屈辱的で選択できませんでした。人生も大きく変わります。最終手段としては『大正解』だと思います。

私は、球技部を途中退部して、帰宅部でフラフラした後に、結論的には⑤を選択して格闘部に入りました。投げたり締め落としたりする競技です。私にとっては非常に適性がある競技でした。団体戦では、都道府県大会レベルでベスト8程度・政令指定都市大会レベルではベスト4程度の成績で、同じ都市内の対戦相手であった私立の全国強豪校には全然勝てませんでした。試合では副将(大将の前)を担当する程度に強くなりました。空手野郎への復讐は、部活先輩がその空手野郎と仲良く話している姿を見て「あー、駄目だ、復讐なんてしたら何か駄目だ」と感じて諦めました。高校時は、部活動に励むと同時に投げる競技の鬼「木村政彦」の自伝や極真空手創始者「大山倍達」の書籍やボクシング「辰吉丈一郎」自伝など格闘関係の本を読み漁りました。





(格闘技との出会い以降)
高校スタート時に1ヵ月間顔を殴られ飛び蹴りされ続けたあの『屈辱感と惨めさと恐怖感』がなければ、私が格闘技の道に進む必要性はまったく生じませんでした。格闘技はちょっと興味があったくらいでしたから、球技部を継続していたと思います。格闘技との出会い以降、人生で発生する身体的暴力への私の態度ははっきりと変わりました。理不尽な身体的暴力を受けて泣き寝入りすることはなくなりました。



(予備校・大学生)

大学では、投げる競技の体育会部に一年在籍して上位段を取得した後、空手系の総合格闘技道場に通ったり、ちょっとボクシングジムに行ったりしました。すべて喧嘩で使う技術を体得するための努力でした。総合格闘技の道場では、暴力団関係者も普通にいましたから、練習を通じて親しくなり、寿司を何回も御馳走してもらったり一緒に飲みにいったりしていました。

青年期の容姿は金髪にしてピアスを両耳に大量にじゃらじゃらさせて生活していました。この時期は、夜の世界に興味がありクラブで黒服のアルバイトをしていました。

思春期・青年時代の競技練習は結構ハードで、投げられて肩が脱臼したり、ふくらはぎの筋肉がブチ切れてパンパンに腫れてふくらはぎ全体が筋断裂内部出血の影響で紫色変色となり松葉杖でしばらく生活したり、組手でパンチを脇腹にもらい肋骨を折られたり、他の人にパンチしたら相手の肘に自分の親指が引っ掛かって親指骨折したり、相手の上腕骨を折ったり、ハイキックやストレートを受け失神したりしてました。



(大学卒業・無職・会社員)

いずれ、大学を5年かけて卒業するにあたり、■■の再発や無職の恐怖の中でもがくなかで、暴力団関係者などとの関係はきれいになくなりました。現在の妻とも大学卒業時ころには結婚を意識して交際していましたし、母親に対して世間的な負い目を負わせたくないという気持ちも普通に持っていましたから、金を稼ぐ手段として犯罪行為を選択することには躊躇いがありました。
ただ、妻とか母親とかそういった壁がなかったら
私は犯罪行為を堂々と行い、犯罪者として生き抜いていたかなと思うことがたまにあります。金融形成にも不動産詐欺にも知的好奇心が強くありましたし、気に入らない相手ならば暴力を躊躇いなく振るえる情の薄さがあります。頭の回転の速さや要領のよさ、抜け目ないズルさにも成績・学歴への強烈な自負心から自信がありました。他人のお金や財産を根こそぎ奪って豪遊することにもそれほど罪悪感はなかったかもしれません。犯罪者として成功する素質と適性と情の薄さがあったと確信しています。孤立して仲間に恵まれることはなかったでしょうが。
でも、踏みとどまる壁が何とか存在する程度の成育環境にはギリギリで恵まれていました。父親は精神的に自分の中で廃棄していましたが、母親は精神的に捨てることができない部分がありました。私は、普段から、両親に頼ることはありませんし、関係性を求めることもありません。中学生の新聞配達アルバイト時から既にお金を家に入れていました。両親との関係は自立的・他者的だと思います。ただ、孫ができてから関係性は柔らかく変わったかもしれません。


私は、大学を5年で卒業した後に無職期間を経て、焦りながら職を探してサラリーマンとなることを選択しました。会社員になってからは、『給与労働者』として家族との生活を守ることを最優先課題にしていますから、失う代償が多いような身体的暴力をともなう喧嘩は一切していませんし、することも二度とないでしょう。私は、もしあの頃に壁が存在せず犯罪者としてぐだぐだ生活していたらと想像すると、現在の大して幸せでない生活の方がその犯罪者生活よりははるかに幸せを築けているのだろうなと、少ない人生経験からですが確信しています。






(第2話のまとめ)
こういった話は、暴力被害に遭ったことがない人にとってはどうでもいい話です。私が、個人的体験の中で『暴力』と向き合うこととなった、一つの過程を記録するためにちょっと記事にまとめてみました。日本社会はかなり安全面がマシですから、生涯暴力と無縁な人が多いと思います。
でも突然『身体的な暴力を受けたときの恐怖』はもの凄いです。正直未体験だと、あんな恐怖はこの世にありませんよ。
親からの幼少時における虐待や夫からの妻への暴力などの恐怖感・殺意感は、私の想像をはるかに超えていると思います。 過去の暴力に関する話としての個別具体例については別記事に継続します。
<児童虐待>相談7万件超え-2014年8月発表ニュース
警察などに悩まず相談することが一番大切ですが、相談するも何も、その相談すらする間もなく、現実社会では「突然刺されて殺されたり、強盗されたり、レイプされたり、因縁つけられたりする」ということが実際起きている。こういったところが、この世界の怖いところです。
私の少ない経験から思うのですが、
助けてくれる人は、正直いません。





人間にとって、実は人間が一番怖い。
人間にとって、実は人間が一番怖い。
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山口組三代目 田岡一雄自伝山口組三代目 田岡一雄自伝
(2006/10)
田岡 一雄

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あまり知っている人はいないかなとも思いますが、この表紙の男性田岡一雄が日本の暴力団の歴史上群を抜いて1番有名な男性です。美空ひばりが所属していた芸能社の社長でもありますね。終戦直後はいろいろな混乱があって警察が鎮圧しきれない暴動もあったようです。そのことに貢献して、兵庫県警水上署の一日警察署長をした時の写真が掲載されており、思わず笑ってしまいました。
暴力団というものは山口組、住吉会、稲川会が強大な3組織であり、その他松葉会、工藤会など20近くの指定暴力団が存在しています。山口組は現在6代目ですが、初代・2代目までが山口さんであり、山口組を全国組織化させたのは3代目田岡一雄さんです。この自伝は面白かった。幼少期に両親を失ったこと、親戚宅をたらい回しにされて暴力団の人間に人情を感じるようになっていく様子、喧嘩で相手の両眼に2本指を突っ込んでえぐることを必殺技にしていたという話、揉め事の相手である相撲取りを東京まで行って短刀で切り付けたこと、組員と揉め事となり日本刀で殺害し殺人罪で服役したこと、身長が170cm無かったということなどなど。最後のほうで、暴力団がなくなるのは構わないが手の付けられない与太者を誰が面倒見るのか、国が面倒を見ようとしないのはどういうことか、面倒を見るような制度を考えてもよいではないか、国も一般の人も暴力団を批判だけはするがその内部の与太者をどう社会で面倒見るかという根本的な部分には触れはしない(内容は本がもう手元にないため正確ではありません、曖昧です。)といったような文があって、田岡一雄さん自身が両親を幼少期に失って孤独を感じていた記述と重なったこともあって正論なのかなとも思いました。社会のはみ出し者をどうすれば良いのかということをたまには考える必要があるのかも知れません。 当然、内容的には美化されている多々部分があるかなとは思っています。
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