スティル✪ライフsuicide

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スティル・ライフ
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。 「きっと人の手が届かない領域は案外広いんだよ」「考えないという手もある。色と同じさ。そこは手が届かない領域だと思って、なりゆきにまかせる」星の話だ。ぼくたちはバーの高い椅子に座っていた。
 

『suicide』 BLOGスタート


Edit Category ◆人生◆
このブログで考察したい最も重要なことは、
自分が自殺を選択するのか、選択しないのか、そのことだけ。



「生と死と不条理な現実と絶対的不幸」への考察、このブログは個人的には大切な一冊の本。

全100記事のブログです。

カテゴリを分類し、全記事表示リンクで1~100までの記事を個別に選択して読めます。

このブログで個人的な内面に巣くっていた『虚無・喪失・衝動・暗さのすべて』を吐き出すことができました。『他人に語るべきでないこと・語る必要性のないこと』のすべてを外の世界にさらすことができました。おかげで、残りの人生を上っ面を綺麗に取り繕って生きて行くことができるような気がしています。




「ラッセル幸福論」岩波文庫
――何らかの理由で両親の愛情を与えられていない子供は、臆病で、冒険心がなくなる恐れがある。そういう子供は、驚くほど幼いころから、人生だの、死だの、人間の運命だのについて黙想しはじめることがある。彼は内向的な人間になり、最初はうつうつとして楽しまないだけだが、ついには、何か哲学や神学の体系の中に非現実的な慰めを求めるようになる。――


上の文章が真実なのかは分からない。

僕は転校が多く、小中学校時代にはいくつかの要因が重なり、周囲に上手に溶け込めなかった。自分が周囲に受け入れられていないと考えるのは耐え難く、自分が周囲を無視していると強く思えるよう自分を高めた。僕は、気に入らない周囲の人間を暴力で圧倒するようになった。気性が荒くなり、中学時代は財布内にナイフを常に携帯していた。僕は、どんどん孤立し、人間関係というものの外にいた、孤独、孤独、孤独...。僕は誰にも話しかけず、話かけられることもほとんどなかった。唯一、「スポーツ」と「勉強」では、高みに立つことに成功していたので、自分のプライドを保つことはできていた。

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17歳の時に別の高校に進学していた中学3年生時に同じクラスで唯一成績で一度も勝てなかった東京大学に楽々と進学できる東大の親を持つ女子同級生が1人自殺した。自分にとってはもの凄いショックだった。成績とかで未来の可能性に向けて努力して生きていくことの無意味さを感じた。そのころ、私自身は勉強のくだらなさに、目的もなく取り組む理由を見いだせずに煮詰まっていたから、なおさら彼女の自殺は凄いショックだった。人生をさっさと放棄して自殺したことは、凄いショックだ。御葬式にも同級生と一緒に参加したけど虚無感に大きく包まれた。

当時は、鶴見済の「完全自殺マニュアル」を購入して何度も何度も読み込んでいた。宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」という著作にも強烈に引き込まれて繰り返し読み込んだ。「リバースエッジ」なんていうマンガも何気なく繰り返し読んだ。

その後、受験に失敗して、浪人時代という「無職」となった。
この春先か夏前ころに、同じく浪人していた高校同級生が脳腫瘍で突然死んだことを知ってショックを受けた。

その生徒が、進学校で覚えた知識、未来のために積み重ねた努力のすべて無駄にして突然死んだことに虚無感をさらに強くした。この時代に初めて精神的に大きな不調に襲われて、受験の直前期に1か月位寝続けて、もう全てが嫌になっていて死にたくなった。

僕自身は、どっかの旧帝大進学率1位の男子校を卒業していた。しかし、高校の勉強の無意味さを深く感じていたので勉強することへのモチベーションが見つけようがなかった。そして、浪人時代は、前期受験にまた失敗し、後期受験する際に宿泊していたホテルで様々な絶望が高まり、深夜に風呂場でシャワーのホースを首に巻きつけて本気で自殺しようとした。

しかし、死にきれずに徹夜のままふらふらした意識で「都落ちする恥ずかしさ」への自尊心と決別し、その地方国立大学を受験し、結果的に合格したことからその大学の経済学部へ進学した。

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しかし、大学は、今までの人生への反動で楽しんだと思う。あえて、誰も知り合いのいない遠く離れた大学に進学したので、人生をリセットしたつもりで新たな生活をスタートさせた。昔の自分を知る人間は一人もいないので、自分の人格・キャラを強引に変えました。友達とも女の子ともいっぱい遊んで楽しかった。中学時代から尖った性格だったので、容貌も金髪に大量ピアスといった見た目で生活していたけど、さすがに大学生にもなれば恥ずかしさから性格は凄く丸くなった。授業のレベルも「経済学部(経営学科)は、日本語を適当に表現してこねくりまわすだけで、単位が簡単にとれるぞ」といった感想を抱き、高校時代から抱えていた勉強への大きなストレスからは解放された。

でも、自分が抱えていた「絶対的な虚無感」は体の中に「芯」として埋め込まれていた。17歳の時に同級生が1人自殺した影響か、このころまでに噂で聞いただけだが中学校同級生がビルから飛び降りたりして5人ほどさらに自殺したと聞いた。

自殺は周囲に影響を与えるので、それから先にも何人か自殺したと聞いたが人数はあやふや。中学は学年で約10クラスがあったので、それなりの規模の学校(1学年約400人)だったと思う。それで影響を受けて自殺した人数が増えていったのだと思う。20歳のときには、祖父が首を吊って自殺した。

人生で初めて働いたのは13歳のときで、新聞配達をしていた。大学でもアルバイトを掛け持ちしていっぱい働いた。働くこと自体はお金を得る手段として抵抗なく受け入れることができた。しかし、就職だけはしたくなかった。働くことはまったく抵抗なかったが、40年近く労働を継続するサラリーマンとなることに耐えがたい違和感のようなものを感じていた。やりたい仕事なんて何もなくて、60歳まで仕事に耐えながら「予測できる人生のイベント」をこなしながら生きていきたいと思わなかった。(今は定年が65歳まで伸びそうで吐き気がしている)大学3年生の秋頃には、就職活動を1社のみ受けて落ちて就職活動を終わりにした。

僕はまったくサラリーマンになりたくなかったので、就職活動を継続していく同級生と同じ道程を進むことができず、大学4年生から1年間休学した。単位はすべて取り終えていたので、バイトや遊びや海外旅行をした。自分の中では「大学時代に遊びややりたいことをいっぱいやり終えた」という感情が強くあり、

「もう充分だ、いま死んだ方が人生勝ち逃げになるんじゃないか」


という思考が強く生じていた。実社会に大人として飛び出していく必要性を感じなかった。

大学5年生中盤時期には、生き続けることに疑問を強め、本当に死を選ぶ状態を漂う生活になった。頭の中の脳内物質分泌機能が狂い出して頭痛がひどくなって「壁に頭をぶつける日々」が続いた。僕は実家から遠く離れた地域で独り暮らしをしていた。遺伝的な問題もあり、自殺すると直感した親が、僕を実家に連れ戻し精神科に1度だけ連れて行った。

僕もどうせ死ぬなら精神科に行ってみてもよいと考えて通院を受け入れた。母親に伴われ、一度だけ受診すると、僕は「本気で死にたい」という強い意識をはっきりと医者に伝えた。措置としてアモキサンという抗鬱剤を処方され、すぐに好転した。

そして、すぐに以前からやっていた一人旅に出発した。いつのまにか、もう死にたい気持ちも消え去り、頭痛もおさまったの。薬は母親が代理で6か月間病院に行ってもらいつづけ、私に送ってきてくれた。でも僕は好転が順調にいっていたので薬を飲む必要がなかった。私がこの時期に通院したのは、1度だけ。これは、病気が安定したのではなく、躁転という現象だった。それでも、僕の大きな疑問は消失しなかった。



「辛いことに耐えてまで人生この先を続けなくちゃいけないのか」


「この人生を苦しみに耐えてまで継続する必要性何かあるのか」
「自殺をしたくない理由が自分の中に大して存在していない」
「この人生を生き続ける理由はない」
という気持ちが私の中には強く生じていた。
確信的な自殺願望は強烈だった。

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僕は、就職活動を一切しないまま大学5年で卒業して、24歳の無職青年として社会に出た。そんな僕だが、現在の妻との結婚を意識していたので付き合っていたので何とか持ち直して(現実と折り合いをつけて)、新たに目標を定めて自分なりに必死になり約1年後に運よく就職することができた。この大学卒業後の無職時期は「詰んだかな」とぞっとする気持ちで過ごしていたので思い出したくない。

25歳で社会の一員としてレールに何とか再度、乗り直すことができたと思った。20歳から25歳の就職まで年金は一度も納めていない。5年受給資格が欠格している。学生時代の免除申請も両親に収入があったため却下されていたから。
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それから先は、一生懸命働いた。全ての中途半端な悩み事を心の奥にしまいこんで、仕事面で向かっていくべき方向性が既にできていた。ただ方向性に向かって着実に日々を充実させ、忙しさと不満と楽しさを同時に消化しながら、過ごしていた。妻と二人の子供にも恵まれて。


そこから、さらなる自己崩壊やうんざりがあるとは思わずに。






■■■
追記:イジメられていた小学6年時同級生の自殺の記録

中学同級生が17歳で最初に自殺した後に、その後数年間で中学同学年に自殺者が何人かでました。現在までだと10人を越えていると思いますが、はっきりと顔が分かるのは5~6人で、後は噂か本当か分かりませんし、今では話題になることもありません。1学年400人程の人数がいたので、各クラスに1人くらいの割合です。
小学6年生の時に、3人の女子が私のクラスに転校してきました。私はそれ以前の転校生でした。1人は明るい美人で、1人は運動神経のよい娘で、1人はどこから見てもイジメられる要素の集まった娘でした。最後の娘は、実際、小学校6年生の1年間、ずっと酷いあだ名でからかわれていました。それなりにお金持ちの家の娘のようでしたが、性格に棘がない、言われても黙っているような性格の彼女にはお金が役に立つことはなかったようでした。「キモイ」とよく言われていました。
こんなことは書き難いですが、お笑い芸人で活躍している女子よりも、もっと深刻な酷な容姿をしていました。私も、時期は違いますが、転校生であり、「キモイ」と彼女に言うことはありませんでしたが、「キモイ」という誰かから、彼女を庇うような行動をしたことは一度もありませんでした。
彼女は18か19歳の時に自殺しました。
彼女は、私の姉と同じ文化部で、私が孤立して尖っていた中学時代に「○○先輩(私の姉)に手紙渡して」と言われて、姉にその手紙を渡したのを覚えています。当時、私に話しかけてくる女の子は皆無だったので印象深い思い出があります。小学6年生を最後に、中学で同じクラスになったことはないので、詳しくは知りませんが、中学3年間も、その後の高校生活も無視されたり、かわかわれたりしていたことは容易に想像できます。彼女の自殺も私にとっては、記憶の隅に強く残っています。

■■■


周囲で起きる自殺には、もう慣れました。
毎年職場で、誰かが自殺しています。5000人規模の会社では珍しいことではありません。
知っている人だと多少驚き、知らない人ならばどうでもよい。
思春期、青年期の自殺は強烈に響いた時期がありましたが、もうそういった時代は過ぎました。
同期入社の奴が新人1年目で自殺しました。
同僚だったずるい性格の先輩が人事異動後に自殺しました。
顔だけ知っている後輩が自殺しました。
同じ職場だった精神病の50代半ばの男性が自殺しました。
多くの社員を精神的に追い詰め自殺させていたサイコパスが詰んで自殺しました。
社宅上階の若年母親女性がベランダから飛び降り自殺しました。
顔も知らない他支店の若手社員がパワハラで首吊り自殺しました。
もっと、もっと、もっと、自殺した人がいるけど、もうどうでもいい。
20歳のときに、祖父が首吊り自殺した話を書いたがそれも、もうどうでもいい。
中学同学年(同級生1名)で自殺者が10人を越えているようだけど、それもどうでもいい。



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★こんにちは★2014.10/10⇒スタート
 
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